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VK3002(MAN)を探る
ここまで調べると今度はVK3002(MAN)がどうだったのか気になるが、当初はダイムラーベンツに生産開始を指示しているが、開発が遅々としているのでDBでの生産はあきらめMAN社のプランを手直しして、こちらがパンターとして登場した、となっているが変更前のパンターとはどのようなものだったのか。
試作のパンターの写真はすでにパンターらしいスタイルになっているが、プレゼンの計画図面はもっと3号4号のようなスタイルなのだろうか?
で、次はMAN社のVK3002となるが、『マン』または『エム・アー・エヌ』と呼ぶらしが今でも存続していてバスや各種機械などを製造販売しているようだ。
バスは日本にも走っているらしいので、今度興味を持って見てみよう。
で、MANのVK3002はDB同様に1941年11月に開発指示が出されるが1942年1月から3月に軍需大臣トート、とシュペーアは両方を精査しDB案を優れていると評価してヒトラーへもそう報告しているとされる。この段階ではどちらも、まだ図面レベルだろうか?
MANが評価で負けた理由は、DBがT-34そのままに傾斜装甲を大胆に取り入れたがMANは旧態以前のドイツ式だったとされる。その不評の原因はどんなだろうと思うがネットでもそれらしい物は見つからない。
シュピールベルガーの著書でも読めば解説がなされているのだろうか?
で、思ったのだが没になった3002(MAN)とはこれではないだろうか?赤丸のやつ
赤丸をしたのは私では無いです 元からです。
と思ったが、ここは恐らくダイムラーベンツのベルリン工場だと想像がつくが、そこに他社の車両が並ぶのは変だろう。
よほどの事情があれば両者の試作車体を並べてみたってこともありそうだが、根拠無しには説得力に欠ける話ではある。
それにしても、これは何なんだろう。他の没作品だろうか
で、画像も図面も拾えないとなると想像するしかないが、今までとあまり変わらないデザインとなるとVK2002(MAN)の拡大版みたいな感じになるだろうか?
しかしT-34の被弾経始を模倣するのが3002の目的だった分けだから、DB案ほどではないにしても、ある程度の傾斜を備えた装甲にはなっていたのだろう。
(上の赤丸はもしかして2002か)
4号系の試作はいずれもVK2001を名乗っているがMANだけは2002になっている。
これは4号の試作とは別物であることを表すよだ。
この20トン戦車がどのようなものだったのかについても知りたい所ではある。
MANは3002の時にはトーションバー仕様で作り始めるが、に完ぺきではないが2002で実績があることになる。これももしかしたら選考で落ちた理由のひとつだろうか?
ちなみにDB案はリーフスプリング式とされる。
当初DB案が採用される予定だったが、DBは開発が遅れた為に(ディーゼルエンジンの小型化に失敗したか?)MAN社のデザインをDB型に変更することで開発が始まる。それまでは図面上のみで、MANは試作車は作っていなかったかもしれない。
しかし当初の軍の要求を満たさなかったそのデザインも是非見てみたいもんだ。
でMANのVK3002の試作開始となる。
平時だったらDB案で完成を目指すのだろうけど、目の前に敵のいる状況ではそうも言っていられない。
やはり手っ取り早く完成出来そうな方を選のだろう。
しかし、設計段階から軍の(ヒトラー)の要求はエスカレートして装甲厚変更により重量が増大しているが、これが理由なのかT-34よりも重量の多い45トンにもなり、高さもT-34より50cm高くなってしまっている。(DBの上部転輪追加もこの辺が理由か)
で、MANのパンターとはなんだったのか?となるが
1、当初のプランは保守的なデザインでDB社に競争で敗れる。
2、DB社が試作車の完成の目途がたたず、MANの外観デザインをDB社に擦り合わせて試作開始。
3、変速機、機関、砲塔の配置は旧設計を引き継ぐが、DB社の外観デザインとは相性が悪かったのかトラブル頻発。
いずれにしてもパンターの生みの親はT-34だがVK3002(DB)の開発失敗が無ければ、後のパンターとなるVK3002(MAN)は存在しないことになる。
試作のパンターの写真はすでにパンターらしいスタイルになっているが、プレゼンの計画図面はもっと3号4号のようなスタイルなのだろうか?
で、次はMAN社のVK3002となるが、『マン』または『エム・アー・エヌ』と呼ぶらしが今でも存続していてバスや各種機械などを製造販売しているようだ。
バスは日本にも走っているらしいので、今度興味を持って見てみよう。
で、MANのVK3002はDB同様に1941年11月に開発指示が出されるが1942年1月から3月に軍需大臣トート、とシュペーアは両方を精査しDB案を優れていると評価してヒトラーへもそう報告しているとされる。この段階ではどちらも、まだ図面レベルだろうか?
MANが評価で負けた理由は、DBがT-34そのままに傾斜装甲を大胆に取り入れたがMANは旧態以前のドイツ式だったとされる。その不評の原因はどんなだろうと思うがネットでもそれらしい物は見つからない。
シュピールベルガーの著書でも読めば解説がなされているのだろうか?
で、思ったのだが没になった3002(MAN)とはこれではないだろうか?赤丸のやつ
赤丸をしたのは私では無いです 元からです。
と思ったが、ここは恐らくダイムラーベンツのベルリン工場だと想像がつくが、そこに他社の車両が並ぶのは変だろう。
よほどの事情があれば両者の試作車体を並べてみたってこともありそうだが、根拠無しには説得力に欠ける話ではある。
それにしても、これは何なんだろう。他の没作品だろうか
で、画像も図面も拾えないとなると想像するしかないが、今までとあまり変わらないデザインとなるとVK2002(MAN)の拡大版みたいな感じになるだろうか?
しかしT-34の被弾経始を模倣するのが3002の目的だった分けだから、DB案ほどではないにしても、ある程度の傾斜を備えた装甲にはなっていたのだろう。
(上の赤丸はもしかして2002か)
4号系の試作はいずれもVK2001を名乗っているがMANだけは2002になっている。
これは4号の試作とは別物であることを表すよだ。
この20トン戦車がどのようなものだったのかについても知りたい所ではある。
MANは3002の時にはトーションバー仕様で作り始めるが、に完ぺきではないが2002で実績があることになる。これももしかしたら選考で落ちた理由のひとつだろうか?
ちなみにDB案はリーフスプリング式とされる。
当初DB案が採用される予定だったが、DBは開発が遅れた為に(ディーゼルエンジンの小型化に失敗したか?)MAN社のデザインをDB型に変更することで開発が始まる。それまでは図面上のみで、MANは試作車は作っていなかったかもしれない。
しかし当初の軍の要求を満たさなかったそのデザインも是非見てみたいもんだ。
でMANのVK3002の試作開始となる。
平時だったらDB案で完成を目指すのだろうけど、目の前に敵のいる状況ではそうも言っていられない。
やはり手っ取り早く完成出来そうな方を選のだろう。
しかし、設計段階から軍の(ヒトラー)の要求はエスカレートして装甲厚変更により重量が増大しているが、これが理由なのかT-34よりも重量の多い45トンにもなり、高さもT-34より50cm高くなってしまっている。(DBの上部転輪追加もこの辺が理由か)
で、MANのパンターとはなんだったのか?となるが
1、当初のプランは保守的なデザインでDB社に競争で敗れる。
2、DB社が試作車の完成の目途がたたず、MANの外観デザインをDB社に擦り合わせて試作開始。
3、変速機、機関、砲塔の配置は旧設計を引き継ぐが、DB社の外観デザインとは相性が悪かったのかトラブル頻発。
いずれにしてもパンターの生みの親はT-34だがVK3002(DB)の開発失敗が無ければ、後のパンターとなるVK3002(MAN)は存在しないことになる。
#
by mmr_ausf1
| 2012-09-16 20:30
| 軍事観察
VK3002(DB)転輪4本は存在するのか
VK3001は1937年の開発指示命令なのでT-34ショックで開発されたパンター試作型には時期的に該当しないと結論付けた。
ではVK3002とな何なのかとなるが1941年11月にMANとダイムラー・ベンツに出された【30トン級戦車開発命令2号】となる。
1937年のVK3001は同じ30トン級戦車開発命令でも陣地突破車両の開発が主眼だったがVK3002はT-34に対抗出来る戦車の開発、つまり対戦車戦を強く意識しての開発命令となるんでしょう。
ダイムラーベンツはT-34とスタイル及び内部構造のレイアウトが良く似たプランを提示したとなっている。
車体の足周りのサスペンションはDB社の経験からリーフスプリング式としたとなっているが、これが功を奏して車体はコンパクトにまとまる予定となっている。
コンパクトだけではサイズの意味合いが広すぎて実際の完成予定の大きさはいまいち掴めない。
しかし巷間に伝わる、VK3002(DB)の二つあるプランの一つが、下部転輪が片側4本になってしまっているのはどうしたことだろうか?
T-34を純粋にコピーするのであればT-34と同じく5本とするのが正解のはずだ。
30トン級でダブルホイールでも片側4セットでは、やはり履帯が受ける荷重からしても損をしているし、その後にありうる要求による重量の増加にも充分に対応出来そうにない。
やはり最低でもT-34と同様な数でなければ、おかしな話だ。
やはり片側4本は後世の人が修正写真からかろうじて分かる上部転輪3セット(これも怪しいが)につられて、その間を埋めるように4本並べてみたという印象を受ける。
ではダイムラーベンツは上図の様な転輪の配置を提案する可能性はあるのか考えてみる必要があるが、VK2001の開発では複合転輪としたレイアウトで片側7本を提案している。
20トンの戦車でもこのような履帯への荷重負荷の軽減を考慮した提案をしているのに30トンで4本はあり得るだろか?
劇的に進歩した強度に信頼のある履帯と、剛柔なサスペンションの開発でも出来たならその可能性も無くはないだろうが、そんな話はない。
そもそもVK3002の軍の要求は複合転輪であることが条件だったのではないか。
やはりダイムラーベンツは当初よりVK3002でもVK2001と同じような足周りを提案するのではないだろうか。その方が自然だと思うのだが。
下はVK2001(DB)
となるとVK3002(DB)は当初からモックアップ同様の片側8本と考えたくなるのだが、上部転輪が3つあるゆえにそのバランスを考えてしまうのでしょうが、上部転輪の下に8本並んでも良いのではないかとも思う。
アトリエインフィニティーのキットがそれを表している様な気がするのです。
どうしてもT-34やモックアップのイメージに近づける為なのかアトリエインフィニティーのキットは真横からみるとどこかサスがヘタっている様な印象を受ける。
想像の産物ゆえに各部のバランスは製作者の判断が含まれるが、下部転輪を上部転輪より下で高さをそろえれば、起動輪も上にあがることによって地面を蹴って無駄に力をロスすることもなくなり、バランスが良くなると思うのだが、そうするとシャーシ側面の高さに問題が出てくるのかも知れない。
このキットのような図面はモックアップ(模型)と試作の写真、それとT-34の印象を無理に整合させてしまっている印象を受けてしまう。
試作車体の残っている画像はほとんど無さそうだが、それにしても残っている画像を見ると足周りの側面高はモックアップのものよりも、もう少し高さがありそうな気がする。
少なくとも上部の傾斜装甲の垂直高より下部側面の高さの方が上下同じ程度、もしくはそれ以上のように見える。
パンターでは上部転輪は見られないが、実際取り付けようと思えば付けるスペースが無いわけでもない。
やはりモックアップの段階では無かった上部転輪をいくつかの設計変更を経て試作の段階では取り付けてみた。そんな所ではないだろうか。
【まとめ】としては
VK3002(DB)開発の出発点はT-34だが、DB社の過去の提案歴からして、当初から一貫して下部転輪は複合で片側8本の可能性が高かったのではなかったのかと言うこと。
上部転輪は図面上での検討の結果追加することになったのであって、決して4輪にする為ではなかったと考えられると言うこと。
戦後の素人図面や模型ではT-34に似せることに力点を置いているが、試作車完成の姿はもっとパンターよりではなかったのか、と言うこと。
よって転輪が8本以下のものに関しては、特に根拠に乏しい想像の産物であると言うしかない。
なので、私の想像するVK3002(DB)の試作車の完成のイメージは、下部転輪8、上部転輪3で、側面から見た転輪配置のバランスはパンターとよく似たものだった。と考えます。
ただし
DB車両は開発が成功し実戦に参加した。とするIf設定の場合は下部転輪が多かろうと少なかろうと、それは自由だ。
上部転輪の有無、はたまた車体や砲塔の形状の変更だって好きにやってみて良いはずだ。
下の画像のドンガラからして、転輪を備えるまで工程が進んではいないことからしても、砲塔を含めどんな感じにまとまったのか分からないことからしても、自由な発想で色々作ってみるのも良さそうではあります。
※赤錆塗装がVK3002(DB)だが右のがVK2001(DB)だろうか?いずれにしてもモノクロのUP画像の時と置いてある場所が違いますね
アミュージングのテストショットも公開されているが、どうもアトリエインフィニティーと同じ印象のようだ。
これもモックアップからデザインされているみたいで、やはりサスがヘタっているように見えてしまう。
なんだか下のパンターと良く似ている(汗)
ではVK3002とな何なのかとなるが1941年11月にMANとダイムラー・ベンツに出された【30トン級戦車開発命令2号】となる。
1937年のVK3001は同じ30トン級戦車開発命令でも陣地突破車両の開発が主眼だったがVK3002はT-34に対抗出来る戦車の開発、つまり対戦車戦を強く意識しての開発命令となるんでしょう。
ダイムラーベンツはT-34とスタイル及び内部構造のレイアウトが良く似たプランを提示したとなっている。
車体の足周りのサスペンションはDB社の経験からリーフスプリング式としたとなっているが、これが功を奏して車体はコンパクトにまとまる予定となっている。
コンパクトだけではサイズの意味合いが広すぎて実際の完成予定の大きさはいまいち掴めない。
しかし巷間に伝わる、VK3002(DB)の二つあるプランの一つが、下部転輪が片側4本になってしまっているのはどうしたことだろうか?
T-34を純粋にコピーするのであればT-34と同じく5本とするのが正解のはずだ。
30トン級でダブルホイールでも片側4セットでは、やはり履帯が受ける荷重からしても損をしているし、その後にありうる要求による重量の増加にも充分に対応出来そうにない。
やはり最低でもT-34と同様な数でなければ、おかしな話だ。
やはり片側4本は後世の人が修正写真からかろうじて分かる上部転輪3セット(これも怪しいが)につられて、その間を埋めるように4本並べてみたという印象を受ける。
ではダイムラーベンツは上図の様な転輪の配置を提案する可能性はあるのか考えてみる必要があるが、VK2001の開発では複合転輪としたレイアウトで片側7本を提案している。
20トンの戦車でもこのような履帯への荷重負荷の軽減を考慮した提案をしているのに30トンで4本はあり得るだろか?
劇的に進歩した強度に信頼のある履帯と、剛柔なサスペンションの開発でも出来たならその可能性も無くはないだろうが、そんな話はない。
そもそもVK3002の軍の要求は複合転輪であることが条件だったのではないか。
やはりダイムラーベンツは当初よりVK3002でもVK2001と同じような足周りを提案するのではないだろうか。その方が自然だと思うのだが。
下はVK2001(DB)
となるとVK3002(DB)は当初からモックアップ同様の片側8本と考えたくなるのだが、上部転輪が3つあるゆえにそのバランスを考えてしまうのでしょうが、上部転輪の下に8本並んでも良いのではないかとも思う。
アトリエインフィニティーのキットがそれを表している様な気がするのです。
どうしてもT-34やモックアップのイメージに近づける為なのかアトリエインフィニティーのキットは真横からみるとどこかサスがヘタっている様な印象を受ける。
想像の産物ゆえに各部のバランスは製作者の判断が含まれるが、下部転輪を上部転輪より下で高さをそろえれば、起動輪も上にあがることによって地面を蹴って無駄に力をロスすることもなくなり、バランスが良くなると思うのだが、そうするとシャーシ側面の高さに問題が出てくるのかも知れない。
このキットのような図面はモックアップ(模型)と試作の写真、それとT-34の印象を無理に整合させてしまっている印象を受けてしまう。
試作車体の残っている画像はほとんど無さそうだが、それにしても残っている画像を見ると足周りの側面高はモックアップのものよりも、もう少し高さがありそうな気がする。
少なくとも上部の傾斜装甲の垂直高より下部側面の高さの方が上下同じ程度、もしくはそれ以上のように見える。
パンターでは上部転輪は見られないが、実際取り付けようと思えば付けるスペースが無いわけでもない。
やはりモックアップの段階では無かった上部転輪をいくつかの設計変更を経て試作の段階では取り付けてみた。そんな所ではないだろうか。
【まとめ】としては
VK3002(DB)開発の出発点はT-34だが、DB社の過去の提案歴からして、当初から一貫して下部転輪は複合で片側8本の可能性が高かったのではなかったのかと言うこと。
上部転輪は図面上での検討の結果追加することになったのであって、決して4輪にする為ではなかったと考えられると言うこと。
戦後の素人図面や模型ではT-34に似せることに力点を置いているが、試作車完成の姿はもっとパンターよりではなかったのか、と言うこと。
よって転輪が8本以下のものに関しては、特に根拠に乏しい想像の産物であると言うしかない。
なので、私の想像するVK3002(DB)の試作車の完成のイメージは、下部転輪8、上部転輪3で、側面から見た転輪配置のバランスはパンターとよく似たものだった。と考えます。
ただし
DB車両は開発が成功し実戦に参加した。とするIf設定の場合は下部転輪が多かろうと少なかろうと、それは自由だ。
上部転輪の有無、はたまた車体や砲塔の形状の変更だって好きにやってみて良いはずだ。
下の画像のドンガラからして、転輪を備えるまで工程が進んではいないことからしても、砲塔を含めどんな感じにまとまったのか分からないことからしても、自由な発想で色々作ってみるのも良さそうではあります。
※赤錆塗装がVK3002(DB)だが右のがVK2001(DB)だろうか?いずれにしてもモノクロのUP画像の時と置いてある場所が違いますね
アミュージングのテストショットも公開されているが、どうもアトリエインフィニティーと同じ印象のようだ。
これもモックアップからデザインされているみたいで、やはりサスがヘタっているように見えてしまう。
なんだか下のパンターと良く似ている(汗)
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by mmr_ausf1
| 2012-09-15 21:09
| 軍事観察
VK3001(DB)は本当に存在するのか
アミュージングホビーからVK3002(DB)の量産型が発売される。
最初は興味は無かったが、段々と面白い車両の様な気もしてきた。
実際にはダイムラーベンツではなくMAN社のプランで制作されることになるVK3002ですが、その後D、A、G,Fと進化して行ったことを考えると、没になったDB案をオリジナルで進化形なんかを考えてみて、大戦中期から後期までを勝手に想像して作ってみるのも面白そうだ。
下のは予約の箱絵とちょっと違いますね。
で、興味持ったので調べてみたが、T-34に衝撃を受けたドイツ軍が取り急ぎT-34のコピーした試作車を作ることを指示して生まれた車両がが後のパンターと言うことになるのは周知の事実ですが、その過程で存在したのがVK3002となるのだが。
手元にあるジャーマンタンクスを開くとDB案はVK3001とVK3002と二つのあるように書いてある。
二つの有名な写真がありますが一つはモックアップのもので今回のキットとほぼ同じもの。
アミュージングはこれを元にアレンジしてキット化したのが良く分かる。
次のが制作中の車体のドンガラ。
かなり写真に修正が入っているので、どこまでオリジナルなのか怪しいものだが、モックアップと違い上部転輪があることになっている。
先行して発売されているアトリエインフィニティーのレジンキットではモックアップデザインのと、下の画像の上部転輪のあるものもキット化されている。ただし下部転輪は片側4本としている。
で、ジャーマンタンクスにはどっちが3001で3002なのかの説明は無かった。
そもそも論ですがVK3001とは何なのか
調べればすぐ分かるがVK3001とは、1937年にドイツ陸軍兵器局が30トン級戦車の開発の命令となる。
VK30.01と表記する場合もあるが、つまり【30トン戦車開発命令一号】と言うことになるだろう。
ここで気が付くが1937年とは独ソ戦の開戦より随分前だ。
つまりT-34ショックと呼ばれる事件よりも遥か以前となり、T-34を見て驚いたドイツ軍がVK3001を開発したとなると話に整合性がまったくない。
つまり、実際にはT-34を真似たとされるVK3001(DB)は存在しないと言える。
実際1937年の【VK3001】によるオーダーで開発を命令されたのはヘンシェルとポルシェが競合した陣地突破用戦車だけとなる。
ヘンシェルとポルシェが競合した開発命令VK3001はその後VK3601,VK4501と要求が拡大し、後のティーガーⅠとなる。
下の画像はVK3001(P)
実際キット化の開発となると実車についてある程度調べると、以上の様な疑問にぶつかり、VK3001(DB)は存在しないのではないかの結論になってしまうが、アトリエインフィニティーも同じ様な結論に至ったのか、VK3001(DB)とは呼ばず、それぞれをVK3002(DB)の片側4輪を初期型、八輪を後期型としている。
しかし、そもそもモックアップと未完成車体一台では前期も後期も無い様に思う。
【結論】
VK3001(DB)は、その開発名称とVK3001(H)及びVK3001(P)の開発経緯からして、DBとH、Pの開発計画に整合性が見られない。
T-34登場によって新たに30トン級戦車の開発となったのだから、名称を付けるならVK3002の方がふさわしい。
VK3001(DB)とは後世に生み出された名称と推測され、当時存在した名称としては考えられない。
よってVK3001(DB)は存在しないとなりそうだ。
最初は興味は無かったが、段々と面白い車両の様な気もしてきた。
実際にはダイムラーベンツではなくMAN社のプランで制作されることになるVK3002ですが、その後D、A、G,Fと進化して行ったことを考えると、没になったDB案をオリジナルで進化形なんかを考えてみて、大戦中期から後期までを勝手に想像して作ってみるのも面白そうだ。
下のは予約の箱絵とちょっと違いますね。
で、興味持ったので調べてみたが、T-34に衝撃を受けたドイツ軍が取り急ぎT-34のコピーした試作車を作ることを指示して生まれた車両がが後のパンターと言うことになるのは周知の事実ですが、その過程で存在したのがVK3002となるのだが。
手元にあるジャーマンタンクスを開くとDB案はVK3001とVK3002と二つのあるように書いてある。
二つの有名な写真がありますが一つはモックアップのもので今回のキットとほぼ同じもの。
アミュージングはこれを元にアレンジしてキット化したのが良く分かる。
次のが制作中の車体のドンガラ。
かなり写真に修正が入っているので、どこまでオリジナルなのか怪しいものだが、モックアップと違い上部転輪があることになっている。
先行して発売されているアトリエインフィニティーのレジンキットではモックアップデザインのと、下の画像の上部転輪のあるものもキット化されている。ただし下部転輪は片側4本としている。
で、ジャーマンタンクスにはどっちが3001で3002なのかの説明は無かった。
そもそも論ですがVK3001とは何なのか
調べればすぐ分かるがVK3001とは、1937年にドイツ陸軍兵器局が30トン級戦車の開発の命令となる。
VK30.01と表記する場合もあるが、つまり【30トン戦車開発命令一号】と言うことになるだろう。
ここで気が付くが1937年とは独ソ戦の開戦より随分前だ。
つまりT-34ショックと呼ばれる事件よりも遥か以前となり、T-34を見て驚いたドイツ軍がVK3001を開発したとなると話に整合性がまったくない。
つまり、実際にはT-34を真似たとされるVK3001(DB)は存在しないと言える。
実際1937年の【VK3001】によるオーダーで開発を命令されたのはヘンシェルとポルシェが競合した陣地突破用戦車だけとなる。
ヘンシェルとポルシェが競合した開発命令VK3001はその後VK3601,VK4501と要求が拡大し、後のティーガーⅠとなる。
下の画像はVK3001(P)
実際キット化の開発となると実車についてある程度調べると、以上の様な疑問にぶつかり、VK3001(DB)は存在しないのではないかの結論になってしまうが、アトリエインフィニティーも同じ様な結論に至ったのか、VK3001(DB)とは呼ばず、それぞれをVK3002(DB)の片側4輪を初期型、八輪を後期型としている。
しかし、そもそもモックアップと未完成車体一台では前期も後期も無い様に思う。
【結論】
VK3001(DB)は、その開発名称とVK3001(H)及びVK3001(P)の開発経緯からして、DBとH、Pの開発計画に整合性が見られない。
T-34登場によって新たに30トン級戦車の開発となったのだから、名称を付けるならVK3002の方がふさわしい。
VK3001(DB)とは後世に生み出された名称と推測され、当時存在した名称としては考えられない。
よってVK3001(DB)は存在しないとなりそうだ。
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by mmr_ausf1
| 2012-09-12 19:51
| 軍事観察
1/35 アカデミー Hetzer 後期型 その4
アカデミーのヘッツァーには光と影迷彩のマスキングシートが用意されてはいたが、後期型とよばれる時期の車両にセットにするにはやはり適切性は微妙だ。
むしろ44年末からの迷彩が出来る物にした方が良かったろうと思う。
ただ、このメーカーも再現すべきキットに対してそれほど熱意があるとは感じなかったので、あまり考えず適当に組み合わせてしまった感じがしないでもない。
バンダイ48ヘッツァー(後期)の箱絵が光と影だったので、それに影響されたんだろうか?
いずれにしてもこのキットは色んな所がチグハグで変な感じがする。
で、後期っぽい塗装をする。
完成ではないが画像にして確認している所。
どうも今回はリカバリー不能な失敗をしたっぽい(滝汗)
出隅に黒を強めに吹いてみたがこれがなんとも痛い感じがする。
その失敗をリカバリーすべく久しぶりにパステルに依存したが、思うようにはいかなかった。
塗装も婆さんの厚化粧のごとくなってしまい、惨めな限りで自分の無能ぶりを思い知らされる(死亡)
今回の失敗は相手が迷彩だったので、もう少し手順を決めてかかるべきだった。
どうも思いつきと勢いでやる所があるのが今回は裏目裏目に行ってしまっている。
さて、どうすんべぇ
むしろ44年末からの迷彩が出来る物にした方が良かったろうと思う。
ただ、このメーカーも再現すべきキットに対してそれほど熱意があるとは感じなかったので、あまり考えず適当に組み合わせてしまった感じがしないでもない。
バンダイ48ヘッツァー(後期)の箱絵が光と影だったので、それに影響されたんだろうか?
いずれにしてもこのキットは色んな所がチグハグで変な感じがする。
で、後期っぽい塗装をする。
完成ではないが画像にして確認している所。
どうも今回はリカバリー不能な失敗をしたっぽい(滝汗)
出隅に黒を強めに吹いてみたがこれがなんとも痛い感じがする。
その失敗をリカバリーすべく久しぶりにパステルに依存したが、思うようにはいかなかった。
塗装も婆さんの厚化粧のごとくなってしまい、惨めな限りで自分の無能ぶりを思い知らされる(死亡)
今回の失敗は相手が迷彩だったので、もう少し手順を決めてかかるべきだった。
どうも思いつきと勢いでやる所があるのが今回は裏目裏目に行ってしまっている。
さて、どうすんべぇ
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by mmr_ausf1
| 2012-09-11 22:16
| 模型制作記
受け継がれる技術
毎年のようにAMで日本軍ブームが来る来ると言っていましたが、ちっとも来る気配を感じないのは私だけでしょうか?
展示会でも誌面でも、そんなに旧軍物は見ないのですが・・・・
ですが、直感ではもうすぐ日本軍ブームが来る気はします。私にだけね(汗)
陸自の61式戦車整備士K元陸曹に出会ったことは前にも書いた。
61は漠然と戦中と戦後の空白を埋める為に米軍戦車を参考に作られた戦車と認識していた。
実際、当時の整備の自衛官達も米軍車両の二番煎じに感じていたようで、また米軍の物よりも劣ると感じていたらしく、陸自の整備士達は三菱重工を見学に訪れた際に色々と意地悪な質問をしてみたそうだ。
見学に訪れた陸自隊員を前に三菱の技師は最初笑顔だったが、隊員たちは用意してきた困りそうな質問を次々にぶつけた。
『なんで米軍はオートマなのに61はダブルクラッチなんですか!やっぱトヨタとか日産とか入れて競合させないと駄目なんじゃないですかねぇ~』
『シナイで戦争やってますけど(当時の中東戦争)61は砂漠にもってたら砂塵を吸い込んで使い物にならないんじゃないですか?!』
その他にも色々と攻撃的な内容の質問を次々としたらしいのだが、すると三菱の技師は見る見る茹でダコのような真っ赤な顔になったそうだ。
で、全てを公には出来ませんが興味深い話、ヤバイ話と色々聞けた。これをきっかけに61式を調べる為にグランドパワー2008年8月号を手に入れてみた。
で米軍戦車を参考に作られた61式と思い目を通し始めると、チト式の文字が多く出てくる。
チトとは旧軍の四式中戦車のことですが61の試作段階では各所には四式の技術が盛り込まれている。
これは四式開発に関わった技術陣が61にも関わっていることに由来するが、その技術の中には明らかに時代遅れの物も含まれた。
技術者ゆえにそのことに気がつかないはずがないが、恐らく技術者の意地だったんだろう。
彼らは戦前から続く戦車開発の技術を蘇らせたかった、そのように思った。
すると次に興味を惹くのは四式中戦車チトと言うことになる。
四式はファインモールドから試作と量産型が出たばかりですが、それに合わせるようにグランドパワー10月号も四式だったのは個人的にタイムリーだった。
改めて見比べると外見だけでも61式戦車と四式はよく似ている。
四式と言うよりも旧軍戦車の特徴がみられる。
四式当時では試作で失敗の多かったとされる鋳造砲塔は61にしかり受け継がれている。
ダブルピンの有用性がありながらもチト式と呼ばれるシングルピンにこだわったのも技師の意地だろうか。
その他にマフラーの位置や防護網の配置などはまさに旧軍戦車のスタイルを蘇らせようとしたとしか思えないレイアウトだ。
米軍戦車のコピーだったらこうはならない。
これを読んでみれば三菱重工の技師がなんで真っ赤な顔になったのか理解出来た(笑)
で、四式の技術はその後の74式、90式と進化しながら受け継がれていくことになるが、そうした知識を得て自衛隊の戦車をあらためて見ると、また見え方が変わってきた。
これらとは別に旧軍戦車の資料も見ましたが、以外にバリエーションも写真も豊富な九五式が目にとまる。
模型でやったら面白そうな情景や改造のテーマも多くある。
ドラゴンから九五式がそのうち出ますが、ドラゴンの旧軍での35参戦はある程度盛り上がるんじゃないだろうか。
タミヤは日本企業でもあるにも関わらず随分長いこと旧軍アイテムはまったく出さず、ファインモールドのみが奮闘していたのでドラゴンのリリースは良い刺激になるんじゃなるだろうが、タミヤはやっぱり、なんにも出さないんだろうなぁ・・・
展示会でも誌面でも、そんなに旧軍物は見ないのですが・・・・
ですが、直感ではもうすぐ日本軍ブームが来る気はします。私にだけね(汗)
陸自の61式戦車整備士K元陸曹に出会ったことは前にも書いた。
61は漠然と戦中と戦後の空白を埋める為に米軍戦車を参考に作られた戦車と認識していた。
実際、当時の整備の自衛官達も米軍車両の二番煎じに感じていたようで、また米軍の物よりも劣ると感じていたらしく、陸自の整備士達は三菱重工を見学に訪れた際に色々と意地悪な質問をしてみたそうだ。
見学に訪れた陸自隊員を前に三菱の技師は最初笑顔だったが、隊員たちは用意してきた困りそうな質問を次々にぶつけた。
『なんで米軍はオートマなのに61はダブルクラッチなんですか!やっぱトヨタとか日産とか入れて競合させないと駄目なんじゃないですかねぇ~』
『シナイで戦争やってますけど(当時の中東戦争)61は砂漠にもってたら砂塵を吸い込んで使い物にならないんじゃないですか?!』
その他にも色々と攻撃的な内容の質問を次々としたらしいのだが、すると三菱の技師は見る見る茹でダコのような真っ赤な顔になったそうだ。
で、全てを公には出来ませんが興味深い話、ヤバイ話と色々聞けた。これをきっかけに61式を調べる為にグランドパワー2008年8月号を手に入れてみた。
で米軍戦車を参考に作られた61式と思い目を通し始めると、チト式の文字が多く出てくる。
チトとは旧軍の四式中戦車のことですが61の試作段階では各所には四式の技術が盛り込まれている。
これは四式開発に関わった技術陣が61にも関わっていることに由来するが、その技術の中には明らかに時代遅れの物も含まれた。
技術者ゆえにそのことに気がつかないはずがないが、恐らく技術者の意地だったんだろう。
彼らは戦前から続く戦車開発の技術を蘇らせたかった、そのように思った。
すると次に興味を惹くのは四式中戦車チトと言うことになる。
四式はファインモールドから試作と量産型が出たばかりですが、それに合わせるようにグランドパワー10月号も四式だったのは個人的にタイムリーだった。
改めて見比べると外見だけでも61式戦車と四式はよく似ている。
四式と言うよりも旧軍戦車の特徴がみられる。
四式当時では試作で失敗の多かったとされる鋳造砲塔は61にしかり受け継がれている。
ダブルピンの有用性がありながらもチト式と呼ばれるシングルピンにこだわったのも技師の意地だろうか。
その他にマフラーの位置や防護網の配置などはまさに旧軍戦車のスタイルを蘇らせようとしたとしか思えないレイアウトだ。
米軍戦車のコピーだったらこうはならない。
これを読んでみれば三菱重工の技師がなんで真っ赤な顔になったのか理解出来た(笑)
で、四式の技術はその後の74式、90式と進化しながら受け継がれていくことになるが、そうした知識を得て自衛隊の戦車をあらためて見ると、また見え方が変わってきた。
これらとは別に旧軍戦車の資料も見ましたが、以外にバリエーションも写真も豊富な九五式が目にとまる。
模型でやったら面白そうな情景や改造のテーマも多くある。
ドラゴンから九五式がそのうち出ますが、ドラゴンの旧軍での35参戦はある程度盛り上がるんじゃないだろうか。
タミヤは日本企業でもあるにも関わらず随分長いこと旧軍アイテムはまったく出さず、ファインモールドのみが奮闘していたのでドラゴンのリリースは良い刺激になるんじゃなるだろうが、タミヤはやっぱり、なんにも出さないんだろうなぁ・・・
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by mmr_ausf1
| 2012-09-09 21:02
| 軍事観察